2014年1月4日土曜日

●『日本近世における聖なる熱狂と社会変動 社会変動をどうとらえるか4』(遠藤薫 勁草書房 2010)

息子の大学の先生の著書。いわゆる社会工学的見地から書かれた論文であるため、若干の読みづらさは否めなかったが、内容的には非常に面白かった(私の大学院時代の恩師の言葉を借りるといわゆる「噛みごたえのある」本だ)。

江戸時代の社会変動に対する考察を軸として、「ええじゃないか」「忠臣蔵」「自動機械」「TDLと善光寺参りの比較」などが分析されている。

特に興味深かった点は2つ。
一つ目は自動機械に対する考察だ。自然の時間にこだわった日本では、機械時計は一般化せず、資本主義や大量生産も発展する事はなかった。
しかし機械時計の技術は、からくり人形に姿を変えて継承され、19世紀の開国とともに、改めて日本の時計産業を発展させ今に至る。

西欧型の自動人形は、人間が新たな神となって新たな人形(ロボット)を創造しようとする、いわば自然への挑戦だ。これに対して日本のからくり人形は、人間と機械とが融合して、新たな自然美を創造するものだった。西欧型は技術追求、日本型は芸術追求という姿勢である。

これは現在においても、日本のモノづくりの職人の姿勢に通じるのではないか。
精緻で美しいモノを生み出す執念は、まさに芸術家のそれと同等とも言えるかもしれない。ただ、そこに拘泥しすぎるといわゆる「ガラパゴス化」も進む。その点も今後、十分配慮していかないといけないだろう。

二つ目は、TDL(東京ディズニーランド)と善光寺の類似性である。両者とも「私」性から来ているところが興味深い。
善光寺は本田善光という人物の私寺がそのルーツであり、一般人の信仰を集めることで拡大してきた。
一方、DLは、ディズニーという私人による創設であり、TDLが出来た。
両者とも集客力に優れ、異界性、共有性、感覚性、宇宙性、拡大性など共通要素が多い。

これらの要素を情報化社会における「地域活性化」として考察するところが、筆者の独自の視点である。

あとがきにこんな一文があった。本書の内容を端的に語った秀逸な一文なので紹介したい(p200)。

 <社会>を考えようとするとき、<歴史>は、欠くことのできない観察記録であり、実験場である。
 <歴史>の窓をのぞきこめば、そこには無数の人びとがうごめき、語り続ける、見ても見尽くせぬ巨大ジオラマが展開している。そして、私たち自身、そのジオラマの一部なのだ。


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